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2014年9月15日月曜日

何回目かの

最近はホームグラウンドでもあるWordPressの方の更新に精を出している。
有耶無耶の気色

ドラフト用、短文用に使っているPostach.ioの方も割合順調。
Rolling Moor

この頃Bloggerの方へはご無沙汰だったので、ちょっと顔を出してみたよ。飽いたらまたここに帰ってくるかも。

2014年7月29日火曜日

消えて無くなれ

山内氏によるBLOGOS「パチンコ増税賛成!」を読んだ。
日本特有の異常に高いギャンブル依存症の背景には、駅前や幹線道路沿いなど至る所にパチンコ店がある、日本特有の事情があるように思います。
道に痰が吐かれているのを見るのとほぼ同感覚なのが駅前や商店街にパチンコ屋がある風景。嫌悪。消えて無くなればいいと心から思う。

街からゴミが消えてクリーンになればいいなんて思っていない。多少のゴミが無い方が不自然。
煙草を吸う人、車と排気ガス、ゲームセンターや不味そうな定食屋、ヤバそうな裏路地、ぼったくりの呼び込みや消費者金融のATM等々含め街の風景だと思うけれども、パチンコ屋は200%不要。

一時期駅前の広告塔をサラ金の看板がほぼ占拠した事があった。どの駅に降りてもそうだったけれども、様々な規制によって今はそれほどでもない。(サラ金自体は街の要素としてあってもいいと思っている)
その気になればできるわけだ。煙草にあれだけの税をかけるのなら、当然同等以上引っ張っていっていいと思う。一瞬で「消えて無くなれ」は現実的には難しいだろうから税や規制で縛りに縛ってぎゅーっと縮小、お願いしたい。

2014年7月23日水曜日

Web世間

SNSでフォローし合っている方々の投稿その他はいつも楽しく拝見して、新しいことを知ったり考えさせられたりしている。
方向性が違う方も多いけれど、そういうこと以前に根っこが信じられるというかそんな感覚がある。
それは違うんじゃないの、と思っても正直にそう言えばきっと真摯にお返事を下さるのではないかと言うようなそういう信頼感。
 
Facebookでいえばシェアや“いいね”、Twitterならリツイートでフォロアーさんの周辺のあれこれを見せていただくことも多い。これがちょっと曲者で、大部分は「へーっ」「ほーっ」と情報の広がりを楽しめるのだけれど、何言っちゃってんの?っていう人もちらほらいて、間接的に見せられたそういう呆れた投稿に関しては流石にフォロアーを飛び越えてまでもの申す訳にはいかないから不満が溜まる。突然現れたその人への上に書いたような信頼感だって無いわけだし、下手なことを言って絡まれるのも嫌だ。
 
そう言う時にはFacebookなら静かに「非表示」をクリックする。良くできていて、フォロアーさんの投稿は今まで通りで、何かの義理か知らないけれどもフォロアーさんが連れてくるその訳の分からない人だけ非表示にしてくれる。
 
訳の分からない人にも二通りある。一方は見るからに薄っぺらい輩、もう一方は真剣であったり、何かを主張する別の理由が透けて見えたりするような「それはそれなりに面白い」人たち。
後者は敢えて非表示にはしない。観察とかウォッチとかいうと失礼になるかもしれないけれども、まあそういうことだ。
 
こういうことって裏表なのは分かっている。私自身がフォロアーさん含め誰かから非表示にされている可能性だって当然ある訳だし。お互い様ってことでどうかひとつ。
ただ、ある特定のフォロアーさんがあまりにも多くの奇妙な人を連れてくる場合、もう少しお友達を選ばれた方が宜しくないでしょうかとお節介なことを言いたくなってしまうこともある。言わないけれどね。
 
何事かをシェアしたり、誰かを“いいね”したりする場合「鵜呑み」にするのはよそう。拡散された場合に負の影響が出る可能性がある場合は特に注意しよう。幾つかのサイトをチェックしたり、本を読んだりすれば嘘かトンデモか真実か、もしくはまだ誰も判別の使用の無いものなのかどうかは朧げながら見えて来る。それでも間違いはある。後で気付いたなら訂正してごめんなさい。
風評は怖いもの。それに晒されるのが個人ならもちろん、零細企業などなら吹っ飛んでしまうだろう。そこの従業員の家族の明日に、風評を気軽にシェアした人は責任を取れるのか。
 
まあ、これは自分への戒めメモでもある。

2014年3月17日月曜日

原子力のこと(漫画「美味しんぼ」問題で思ったこととか)

きっと火を使おうと苦心していたごく一部のヒトの周りで、大勢の人たちは猿のように「何おっかないことやってんねん」って罵声を浴びせていたんじゃないのかな。その後ヒトが火を使うのは当たり前になりヒトであることの象徴にもなり、一方今でも大火に襲われれば悲しいけれど為す術がないのも現実。

怪談話が上手な人がいる。細かな描写や数字等を駆使して真しやかに。多くの人は刺激的な話が好きだから怪談話は一人歩きを始め、さらに上手な人が肉付けをして話は一定のレベルのモノになる。所謂ネット上に蔓延る陰謀論ってやつもそう。ケム何とかとかね。
似非科学者が小銭欲しさに物語づくりに加わる状況も散見され、やれやれって感じ。
いやいや、お化けはいるのかもしれないよ。誰も否定は出来ない。

一方実験・実証を積み上げて来た科学の立場がある。科学者は自然現象について絶対ということは言わないからお化けはいると信じる人たちとの間での論戦はどこまでも平行線のまま。証明して見せ、それを積み上げて時間をかけて定着させるしかないと考えている。ただし、折角定着させたものがある日新しい発見によって覆ることもある。
数十年後に答えは出るかもしれないと言っても大勢の人たちは待っていてはくれない。興味の方向も時間の物差しも違う。

火を使い、文字を作り、印刷をし、刃を研いでヒトは生きてきた。科学の発展には多くの犠牲を伴った。薬が一つあれば、それで助かる者と、副作用が生じる者の両方が出てしまう。
火で死んだ人、言葉によって死んだ人、刃で死んだ人…。労働は人に必要なモノを産みだしたけれども数々の事故の犠牲者も少なくなかった。
効くと信じて飲んだ薬が害になること。化学製品を作るための廃液での公害。毒を持つ顔料でも工夫して絵具に使った。フグ等の毒を持つ生き物にあたった人がいても、何とか安全に美味しく食べようとした執念はすごいね。
動植物を殺して食べなければ生きて行けないように、それでも科学とともに人は歩いてきた。科学が絶対だというつもりは毛頭ないけれども、好む好まざるに関わらず定着した技術や配合は生活の中で無くてはならないものになっている。

漫画「美味しんぼ」の件では、作者の雁屋氏は上質のリトマス試験紙を提供してくれたと思う。各SNS等を見ているとそれぞれの考え方がきれいに色分けされているのが分かる。科学的な考え方をする人と、そうではない人というような単純な白黒ではなく。
まあ、作品自体については、漫画は漫画界でって思うので、政治家やその他メディアが口を挟むようなことではないと思う。個人的にはちゃんと読んだことの無い漫画なので、内容そのものにはあまり関心が無い。
例えばtwitterでデマが蒔き散らかされて話題になる時がある。そういう時にはtwitter民自身が丁寧に訂正しそれがリツィートされて火消しに至る。所謂自浄作用っていうの?漫画界、出版界にもそういうブブンはちゃんとあるのではないかと思っている。
福島の放射線量と健康被害の関係について思う事はこちらのブログ「山岡士郎はなぜ鼻血を出したのか」で書かれている事に近い。著しい危険は無いのではないか、と私が思う理由はこのブログを含めネットで拾い集めた情報と、地震後の長期ボランティアとして現地に滞在した知人の言葉を又聞きした、それが全てである。専門の研究者ではないから心もとないし、自分のスタンスが間違っている可能性も否定できない。同じように各方面の情報を集めた結果正反対の意見を言う知人がいる。見るもの、感じ方が違えば当然そういう事は起こるし、何を否定するものでもない。ただ間違いなく言えるのはこの件も含め、慎重である必要があるということ。
例えばある病気の疑いがあって医者にかかったとする。それを知った誰かが周辺に病名とともに言いふらしたとしたら、そうされた方はどう思うか。もし検査の結果何でもなかったとしたら?
声を上げては行けないという事ではなく、幾重にも慎重に、ということ。

あの地震と津波に起因する福島第一原発の深刻な事故を受けて、日本だけでなく世界各地のエネルギー政策が影響を受けた。
地震の前はどうだったか。一部の人は原発に対する危惧を抱いていたけれども、多数は田舎の原発から送電される電力を無意識のうちに享受し、様々な日常の活動に役立てていた。東電や発電所の従事者に対して感謝こそすれ、特に目の敵にすることも無かったと思う。
ところで原発に限らず各分野にごく一部混ざっている「選民」さんには笑える。「これだから大衆っていうのは…」とか、臆面も無く愚民たちと言い放つ輩もいて滑稽だ。街の中で黙っている誰かはあなたが思っているほど馬鹿じゃない。もちろん得意分野の情報はその正誤はともかく「選民」さんたちのほうが多く持つだろうし、何に対しても本気で無関心な人もいるようだから、そもそもひとくくりにする方が間違っているのだけれど。

新しいエネルギー政策では自然・再生エネルギーの実用化への道筋が大きく広がった。この技術も大変興味深いけれども、これに全てを任せるという段階には到底及ばない。自然エネルギーにしても長所と短所がある。事故も環境への影響もあるだろう。絶対的に安全で無公害なシステムなど作れない。従来型の原発を新造することはありえないとして、電力の安定供給のためには今は火力に頼らざるを得ない状況だが、火力発電には大きな懸念がある。あれだけ公害が問題になったことをみんな忘れてしまったのだろうか。いくら技術革新があったとしても地球に与えるダメージは再生可能エネルギーや原発よりも数段上を行く。

次世代原発の開発を急ぐべきだと考えている。そのための研究者の育成やサポートの充実はもちろんのこと。太陽光発電等の研究を進める一方で、太陽と同じメカニズムでエネルギーを生み出す仕組を何とか手に入れたい。それまでの繋ぎには、安全性を幾重にも考慮した上で現在停止中の原発を動かす事もやむを得ないのではないかと思っている。繰り返すけれど、世代的なものかもしれないが火力発電には良いイメージが無い。地震に端を発する福島第一の事故に際しても、すぐ近くの福島第二や女川の原発は無事だった。女川は住民の避難所にすらなった。第一に関しては人為的なものも含め本当に不幸な出来事が重なってしまったのだと思う。

重大事故はあり得ないような偶然の重複で起こることが多く、人の理解の範疇を越えた事故は膨大な状況の断片やデータも吐き出すから、そこにはどうしてこうなるのかと後から考えれば首を傾げたくなるような事象も混ざり込む。その辺がお化け大好きな人たちの格好のネタになるわけだ。

いや、世界に陰謀的なものなど全くなく目に見える事象が全てだなどとは言わない。ただ策謀についても事象の一つに過ぎないのだから、実証と実験、データを積み上げ解析して白日の下に晒して初めて論ずべき対象は現れるのではないか。それをせず朧げなまま魔女狩りをしたら、必ず今回のように謂れも無く不幸になる人が出てきてしまうのだと思う。

腹立たしいのは、お化け大好き陰謀論者たちの圧力で、地道に研究を続けてきた真っ当な科学者が何人も口を閉ざさざるを得ない状況に追い込まれたらしい事。冷静に科学的に放射線の被害について説いたところが、「原子力村」のレッテルを貼られ、遂には家族にまで害が及び沈黙せざるを得なくなった人がいたとか。事実なら何とも残念だ。
火を恐れる気持ちは分かる。ただ人はそれを乗り越えて行くものではないのか。

原発事故後の東電の対応に疑問を感じた人は多い。腹が立つと言えば、僕も当初かなりイライラしながら見守っていた。ただ、すぐに気付いたのはこれは何も東電だけの問題ではなく、日本の社会構造そのものの問題なのだろうということだった。

家の誰かが問題を起こした場合、この国では家族は何よりも家を守ろうとする。家を会社と置き換えても、村と置き換えても同じ。問題を起こした誰かや原因を隠蔽してでもそうしようとする。「世間」に対しては型通りの謝罪をするものの、家のことは家でとばかりに責任の所在はうやむやにする。
原発事故の影響は日本国内はもとより海外、地球全体にまで及んだ。東電の幹部連中が「東電村」「原子力村」を守ろうとしたのは断じて間違いだった。
問題が起きたならそれがどの範囲に及ぶのかを先ず考えるべき。そのエリアの被害を最小限にとどめて守り立て直すことが第一、次に原因の究明とともにエリアの外側に対する配慮、家やムラのことは二の次でいい。

この星の資源を喰い尽くして物質的な豊かさを追い求める道は曲がり角に来ているらしい。未来を見据え別の意味の豊かさを望むのならなおさら、エネルギーに関しては原子力は捨てず諦めず、本当に安全に使いこなす研究を脈々と続けて欲しい。若い研究者が興味を持って取り組む道筋を作り維持して欲しい。いずれにしても現在存在する古い原子炉の廃炉ひとつ考えてもこれから長い時間多くの人数の技術者が必要になる事は判っている訳だから。

半永久的に稼働してガスや現代の電力よりもはるかに安全な超小型原子炉が各家庭に備え付けられているような未来を夢想する。原子炉を持たない集合住宅や、公共施設、企業、工場へは電力会社から自然エネルギーと原子力をミックスした大電力が供給されるのだろう。
そんな未来は生きている間には見られそうもないけれども。

2014年1月1日水曜日

年始

いつものように大晦日に近距離の田舎へ。
今年は神棚他へのお飾りを頼まれた。微妙にやることが増えて行く。大したことではないけれど。

正月飾りは前日にするものではないのは分かっているけれども仕方が無い。
忙しければいいよと言われていたけれどもしないよりはいいし、うちの神様たちは分かってくれている。

年越し蕎麦は初めて箱根そばで予約してみた。蕎麦も蕎麦汁も美味しかったけれども、載せた天ぷらのボリュームが多すぎて父は平らげるのに苦労していた。

早寝の父が寝た後、ひとり紅白。あまちゃんコーナーが楽しかった。宮藤官九郎の書く物語って高橋留美子の世界に(その境界的に)若干似ているのかもなーなんて思ったり思わなかったり。だらだら。

明けて元旦、今年の雑煮は僕が作り始めてから1、2を争う出来であった。前日東急ストアでみつけたトップバリュの「豚汁のもと」が効いた。それと鶏ガラスープ。来年もこれで行こう。忘れなければ。

父はちょっと目を離すと居眠り。居眠り比率が前年比50%以上上がった感じ。まあ元気そうだったから良し。

昼前には発ち、午後から年末できなかった掃除を済ませて少し仕事と思っていたけれども、酒飲んでうとうとしつつ早寝を決めてみた。

2013年9月16日月曜日

迷ってる

さーて。迷ってるよ。

どうでもいいことなんだけれど。

今回のアラートのこととか、リーダーが終了されてしまったこととか。Googleさんを信用して色々預けすぎるのもどうかなと。
Googleだけじゃない。Yahooなんてもっとひどい。気に入っていたサービスがYahooに取り込まれた末に消されてしまったり放置されて魅力が半減してしまったり。
もちろん多くの素晴らしいサービスを、それもほぼ無料で提供してくれていることには大いに感謝しているけれども。

そういうわけで、ブログのバックアップ的なものをBloggerに置いて行くことも、また迷う。
どうせバックアップなら自サーバのwordpress(以前の処)で良いのでは。

うーむ。

2013年9月10日火曜日

五輪版野球案(2時間制野球 Caseball?)


“ナベツネ”氏が五輪で野球をやるならと言うことでこんなことを言ったらしい。
スポーツ報知
9イニングは長いよ。7でもいいし、5でもいいんじゃないか。ファウルは10でアウト。
試合を時間短縮する。五輪で野球が出るようにしなきゃいかん。
野球は戦力がそこそこ近いチーム同士の戦いでは偶発的要素が勝敗を左右することが多いから、単純にイニングを短くしろと言うのは駄目。事故のようなプレー一つで試合が決まってしまったりすれば実力者がそれを挽回する機会が失われ、上手な野球選手の技術を見て楽しむという野球観戦本来の面白みが消えてしまう。これでは本末転倒で話にならない。また単純に5回終了にしてしまったら玄人好みの9番バッターに何度打席が回ってくると言うのか。
ただ、後段は賛成というか、それも面白いかなと思う。

野球の面白さを引継ぎつつ要素を加えたり削ったりしながら新しいゲームを作る感覚で考えてみたらいい。
こんなん考えてみた。

  • 基本的には9イニング表裏終了時点で点数の多いチームの勝ち。コールドゲームあり。
  • ただし、2時間を超えて新しいイニングには入らない。2時間時点でまだ4回表なら、4回の攻防で終了、試合成立。
  • 延長は勝敗が決するまで行う。延長戦の方式はソフトボールと同じタイブレーク方式。
  • 2時間経過時点で同点の場合次のイニングからは延長扱い。例えば2時間の時点で7回表6対6なら、7回の攻防は通常通り行いそれでも同点なら、8回からは延長戦とする。
  • 攻守ともに遅延行為にはペナルティを課す。テイクワンベースやワンアウトなど厳しいものを。

とりあえずそうして2時間はみっちりと密度濃く戦う。乱打戦でもテンポの遅い試合でも、2時間戦えばその趨勢は見えてくる。本来の9イニング野球での味わいは損なわれるかもしれない。ただ、繰り返すがこれは野球ではない。野球風味の新ゲームだ。時計を睨みながらの作戦立案もまた面白いではないか。時間切れ間際の大逆転とか、もつれた試合をどう逃げ切るかなどはここでも楽しめる。

野球は野球でほぼ完成された最高に面白いスポーツなのだから、それはそれとしてこういうものもあってもいいのではないかと思う。オリンピック競技用または国際大会用としてもいいし、何なら独立リーグなどでこの形式でシーズンを戦ってみるのも良い。

蛇足ながらこの野球風のゲームを時間枠を決めて行うという意味を込めて"Caseball"と名付けてはどうだろう。

代案、修正案歓迎。[Postach.io

2013年9月4日水曜日

脳内メルトダウン

Gigazineより。「貧しい人の認識の帯域は「貧困」という事実で埋め尽くされてしまうので、その状況から抜け出すことができなくなる」大学の研究チームが発表したとのこと(8月30日発行のScience誌)。こんなこと研究するまでもないのにね。厳しい状況の人に2、3人聞けばすぐに分かる。

例えば、1000万円弱の負債が有りもちろん蓄えは皆無、不安定な仕事に就いていて年収は年度によって幅がある人がいるとする。200万の年は完全にやっていけない。300万なら生活費、食費を考えなければギリギリ、400万以上あればとりあえず食うことはできるだろう。

タイミング悪く最低限の年が2、3年続いてしまったとするとどうなるか。借金は極限まで膨らみ月初に返済等含め30万必要なところ10万円しかないというようなことが毎月続く。その時に頭の中でそろばんを弾くとすると、普段なら余裕を持って暗算ができるものをそういう時の暗算はそろばんの球と軸がブワっと膨張して球の一列(5球)のみで脳内が満たされる感じになる。他のことは一切消えて血管も膨らみ脳内温度が急上昇したように感じる。そろばんの球を弾いて計算しようとしているのにそのこと自体を数秒後には認識できなくなる。今何をしようとしていたんだっけ。

脳内温度は上昇したように感じるのに首筋から背中にかけては冷やーっと血の気が引いて寒い風が吹き過ぎる。Gigazineの記事でも書いている。
貧困下にあると貧しい現状で頭がいっぱいになり貧困から抜け出せなくなる - GIGAZINE: 貧困であることで課される精神的負担の大きさは、IQを13ポイント失うのと同等であり、また慢性のアルコール中毒患者と健常者との差に匹敵する
記憶や知識、考える核のような部分がまとめて落ちてすっと消えて行くのを感じる。それをIQ喪失というのならそうなのだろう。
がんじがらめで動けなくなるらしい。脳内も身体も異常な状態になる。
おまけにそういう時には酒に救いを求めたくなったりもする。蟻地獄だねw。

結局のところ、そういう状況を耐えられるかどうか、くぐり抜けるかどうかなんだよな。
才気にあふれ、それを上手に社会経済と絡められる人はどんどん走って行けばいい。問題は大半の「才覚は無いが頑張ってしがみつく」人や「秀でた何かを持っているのに社会と接続することができない」人たち。
頑張って欲しいな。死なないで欲しい。[Postach.io

2013年8月28日水曜日

まとめた

メールを作って、あっちとこっちに送信するとpostach.ioとbloggerに投稿できるらしいのでテスト。

散らばっていたサイトをようやくまとめてスッキリ。postach.ioがこれから長く続いてくれればそれだけでもいいのだけれど、安定のbloggerも押さえておけば問題ないっしょ。ただ、後でタグはちょっと直さないといけないな。

vox、posterousと気に入っていたサービスがことごとく終了してしまったのでちょっと慎重になってる。
ところでMarkdownはbloggerではどーなんだろう。

2013年7月19日金曜日

日本人の半分前後が日々お仕着せの服を着て平気な風景はちょっとだけキモチワルイ


選挙に行くことは特別なことではない。

何らかの形でムラのために前面に立つ人たちを選ぶ行為は大昔からやっていた。順位付けの行動と考えればサルだってやっている。

朝起きて、今日は何を着ていこうかと考える。結局いつもと同じようなダサダサの服になったとしてもともあれ考える。一方で身近な誰か(ママ?)に一式用意してもらってそのまま着て出掛ける人がいる。汚れた時やすり切れた時の衣服の補充も当然全ておまかせ。
用意された世の中に何の疑いも持たない。自分の仕事や勉強、遊びやコイビトやトモダチのことで忙しくて糞ダサい社会のことなんて眼中に無い。

サルに置き換えれば、順位決定のための戦いなんて面倒だし野蛮じゃん。時間の無駄無駄、不戦敗でいいよ、あの図体のデカいやつに任せた!って感じ。まあ、現実のサル社会ではそんな奴は孤立して結局は群れから去ることになるのだろうけれど。

でもここは猿山じゃない。進化した人間様wの世界。

不戦敗を選んだ人たちの中からも役に立ったり後世に残るような仕事を成す人は多く出てくるだろう。選ばれた為政者たちにとっては、無関心だけれど真面目に高い税金を払ってくれるようなタイプが一番重宝するわな。どんな政治をしようと無関心だからオールスルー。戦争するよって言われたってOK。
これだけ人口が増えたのだから半分も投票すれば十分のような気もする。今はそういう社会なのだ。選挙なんて行っても行かなくても関係ない。アリの世界だって群れの総数に関係なく役割分担の割合は決まる。必ず一定数のニート蟻がいるのが彼らの社会。

選挙に行かないことも特別なことではない。

何人かは、いい加減な1票や組織票を投じる人以上に深く考えてその結果棄権を選ぶのだろう。いや、テキトーでも組織票でも熟慮の末の棄権でも、関心無しのスッポカシだって何でもアリ。0票は0票、1票は1票というだけのことだ。

日本人の半分前後が日々お仕着せの服を着て平気な風景はちょっとだけキモチワルイ気もするけれども、なかなか子供の頃からの習慣というものは変えられないよね。
お仕着せデフォルトの側から見れば服装選びなんてご苦労なこった。馬鹿じゃないのと思われているかもしれないけれどこちらも習慣だからなかなか変えられない。

自分のことを言えばとりあえず選べるものは選びたい欲張り気質。
身の回りのことで人を選べば色々角も立つ。
その点選挙は後腐れ無いからね。スパッと切ったり張ったりできる。馬券のように当たったからといってその場で濡れ手に粟ということはないけれど。
日々世間と若干ズレた暮らしをしていると、こういう機会にちょこっと社会にアクセスしたくもなる。それは世の中との出入り口の替わりに、くだらないと分かっていながら仕事中も背後でテレビをBGM的に付けっぱなしにしておく感覚と似ている。単純に投票所のフラットな空気が嫌いじゃないってこともある。
今度の参院選みたいに大方結果が判ってしまっているような選挙でも、大勢の人や金が動けば何かしら酒のツマミになるような事象は多少出てくるもの。負けゲームでも勝ちゲームでもそれなりに観戦の仕方はあるもんだ。

2013年7月3日水曜日

修行

削ぎ落とす作業が必要になってくる時がある
作業によっては落とさなくてもいいもの、落としてはいけないものまで道連れに落ちてしまう
そういうことって案外多い
デッサンする時のパンは注意しながら使う

念じたりスイッチを切り替えたりして落とせるもの
どうしても時間は道連れにせざるを得ない
瞬時の場合もあるとはいっても

予め落としておくということや遡って落とすことを想像してみる
それにしたってそのことを考え、落とすためにスイッチに手を伸ばし切り替えるための時間は必要
ただそれがほぼ無意識のうちに完了できるようになれば道連れは最小限ですむのではないか

もしかしたら、それを修行と呼ぶ?

2013年6月28日金曜日

冷房のせいかな

世間が蒸すだの暑いだの言い出す頃、多くの施設や店、交通機関は冷房を入れ始める。だいたいそのタイミングで不調になる。自宅の冷房は残暑が始まるくらいまではあまり付けない。体温をはじめとする体のシステムを変化に慣らすのが下手なのだ。変温動物でございと割り切れればいいが、一応ほ乳類の人類の端くれなので困る。

寒気がして動機がおさまらない傾向。かといって厚着をすればそりゃあこの季節なのだから暑い。厄介だ。

何か良さげなものを食べようという方向に向かい、それだけならいいが遂には酒でごまかそうとする。呑んでいる最中はいいけれど後でより強い寒気と動悸がやってくる。

早く誰がどう見てもただただ暑いだけの季節に変わらないかな。汗の量とともに体調も落ち着いてくるはず。

2013年6月25日火曜日

7日後、親知らずを抜く

数年ぶりに歯医者へ。

どうしようもない痛みがある訳ではないが、外れてしまった詰め物が2カ所あり、その一方はちょっとヤバいことになっているのが分かる。それに古い治療でガタが来ている部分も多数あり覚悟を決めた。

前回堀留町にいる頃かな、通った歯医者は完治前にリタイア。今度は完走を目指す。今まで歯医者は近代的な設備のあるところから、田舎の老医師が歯を削るところまで様々通ったのだけれど、今回はこの町に昔からある落ち着いた雰囲気。

ヤバいことになっている歯は所謂親知らずポジションの歯。普通20代前後で抜くのだろうけれどそれをやり過ごし、虫歯になった時にもその時の歯科医と相談して治療し詰め物をして歯を残すことを選択した。
このまま使い続けようと思っていたのに、ある日あっさりと詰め物は落ちた。
ここしばらくは歯医者どころではなかったため放置していたら再び虫歯に。神経を抜いて治療済みの歯でも虫歯になるんだね。 ただ、何かが当たれば痛いがその歯を使わないようにしていればなんてことは無い。それでずるずると引き延ばし気付いたらヤバいことになっていた訳だ。今回の歯科医は抜歯を即決。こちらも異論は無かった。

そういう訳で次回、7日後、親知らずを抜く。この年になって、恥ずかしながら。

2013年6月16日日曜日

食事

定時の食事という行事をしなくなって1週間が過ぎた。

体型が気味悪くなっているとか、それに伴い息が上がるということもあったが、何時ものようにただ何となくというきっかけで始めてみた。

栄養補給は大きなものは平均一日一回。特に決めてはいないが。その際に炭水化物を少し摂る。その他の時間にはトマトジュースを飲んだり、チョコレートを齧ったりしている。
酒は呑んでる。これも何時ものこと。

金がないということもある。食費を削れば(元々がたいして使っていなかったから微々たるものだが)幾らかは他に回せる銭が出る。

何かを絞ることで何かが見えてくるのではないかという想像もした。これが一番決定的な理由かもしれない。
見えるべきものが見えなくなっているし、見られるべきものが見られなくなっている。
目を凝らし耳を澄ませても駄目だった。金銭的な困窮や体調の悪化よりもそれが深刻だ。

見えなくなっていたものを取り戻したい。
気がつかないうちに見えなくなっていたものは色々あったらしい。
体を絞ることとは別に、最近では姿勢に気をつけている。子供の頃から側湾症で姿勢が悪く首を大きく右に傾ける体制がデフォルトだった。でも絵を描くのは得意だったし、視線にはそれなりの補正がかかっていたのだと思う。
姿勢を気をつけるようにし、あらためて水平というものを感じてみると世の中が別のものに見えてくる。世界の広がりや物の正しい形が見えてくる。

僕はもう一度絵を描いてみようと思っている。

2013年5月24日金曜日

施餓鬼


脚が悪い父親の変わりに田舎のお寺のお施餓鬼に出て来ました。
子供の頃から「おせがき」という言葉と行事は知っていましたが、改めてこんな字を書くのかと、今頃知った訳です。

その名の通り餓鬼に施すということ。それは無縁さんへというだけではなく、代々続く自身の家系へまた自分自身の中にいる「餓鬼」への祈りなのだと講話に来られた偉いお坊さんが言われていました。

講話の後はお施餓鬼の行事。思っていたよりも宗教色が強い感じを受けました。といっても古代から続く仏教へ思いを馳せることができるような荘厳なもので、(例えるのも何ですが)間違ってカルトな会合に行ってしまった時のような嫌な感じはしませんでした。
宗教がどうというよりも(って言い方もないか)様々な年齢層のお坊さんたちの抑揚のある読経と雅楽が圧巻でした。すごく良かった。

坊さんの話を1時間も聞いていたら徹夜明けでそのまま駆けつけた状況だったので寝てしまうに違いないと思っていたのだけれど、そんなことはなく十分楽しめました。全体で2時間あまりだったのだが、割合あっという間で家のお墓の周りの草むしりをして帰りのバスに乗る頃には良い展覧会やコンサートを見た後と同じようなパワーをもらったような気分になっていました。

ただ、前半のお坊さんのお話自体は有難いものでしたが、僕にはあまり適合しないものだったかもしれません。ちゃんと家庭・家族をもち、一般的な暮らしをされている方達向けという感じ。もちろんそれはそうでしょう。いい年をして好きな仕事にしがみついて独り者。暮らしはカツカツで自分そのものが餓鬼のような、そんな特殊な人向けにああいう場でお話をされる訳は無いでしょうから。歴史の中の謂れやもの事の意味については勉強になりました。

wikiとかで見ると施餓鬼については、これって餓鬼たちの脅迫みたいなもんじゃんなどと思ったりもしたのだけれど、まあその辺の辻褄は当然奇麗に揃うようになっていてストーリーとしては納得できました。ただ、こういった行事ってこの後世代が変わっていく中でこの通り続いていくのだろうかと若干心配にもなりました。僕以外は集まった皆さんはさらに年配の方達ばかりだった事もあると思います。

バファローズ日本一

久しく書いてなかったので何か一つ。   2022年のプロ野球ではオリックスが二敗一分けからの4連勝で日本シリーズを制し日本一に。 バファローズが近鉄の頃、唯一日本一になれなかった球団だった。オリックスに吸収されたもののバファローズの名前は残り、今回の優勝となったわけだから「バファ...